地元社会のために

アフプアア: 持続可能な社会 4

Huaka‘i ‘Āina Ho‘oilina:
Exploring the Lands that Sustain Us
Kamehameha Schools

Chapter 4, Waipā Foundation on Kauai

Waipā Foundation on Kauai from Kūlia I Ka Nu‘u on Vimeo.

ワイパー(Waipā)はカウアイ島のハレレア(Halele‘a)というモク(moku)にあるアフプアア(ahupua‘a)のひとつです。ハレレアとはハワイ語で幸せな家という意味で、ワイパーとは触れられた水という意味です。ワイパア(Waipa‘a)と書かれることもあるそうで、その場合はせき止められた水という意味です。ワイパー川が海に流れ込む場所がしばしば砂でせき止められることがあるのが名前の由来ではないかと言われています。ワイパーでは古来よりタロイモが栽培され、魚が養殖されていました。水と命の神であるカーネ(Kāne)のための神殿ハラロア・ヘイアウ(Halaloa Heiau)があります。
この1600エーカー(約647ヘクタール、約6.47平方キロメートル)のワイパー・アフプアアは、ハレレアの他のアフプアアに比べると小さ目です。ワイパーも他の地域と同じく、西洋人の渡来後たったの200年余りの間に、人々の生活にも自然にも大きな変化が起こりました。まず病気のために多くの先住民が命を失いないました。
ハワイではもともと土地は個人が所有するものではなく、全ての土地は王または酋長のものでした。それぞれのアフプアアで自給自足であり持続可能な暮らしをしていまし。それが1848年(カメハメハ三世の時代)に制定されたグレート・マヘレという土地の分配法により、23.8%の土地が王領となり、39.2%が245人の族長の間で分配され、37%が官有地となりました。ワイパー・アフプアアはカメハメハ一世の孫娘のひとりであったプリンセス・ルース・ケエリコラニ(Ruth Ke’elikolani,1826-1883)の所有地となりました。1883年にプリンセス・ルースの財産は従姉妹であったプリンセス・バニース・パウアヒ・ビショップ (Princess Bernice Pauahi Bishop, 1831–1884)に相続され、同年にプリンセス・バニース・パウアヒは、ハワイの子供たちを教育するための学校の設立を指図しました。プリンセス・バニース・パウアヒが生まれた1831年には、ハワイにおける先住民(ハワイアンの血を引く人たち)の人口は約124,000だったそうですが、亡くなられた1884年ごろには約44,000人以下に減少してしまっていたそうです。1848年11月には、オアフ島のコナというモクの6つうちの5つのアフプアア(ワイキーキー、ホノルル、カパーラマ、カリヒ、モアナルア)だけでも、15日間の間に麻疹や百日咳で380人もの死者が出たそうです。
ワイパーでは1860年代まではタロイモの栽培が盛んでしたが、次第に中国人や日本人による稲作が盛んになり、それは1940年代まで続いたそうです。その後、牧畜が営まれるようになり、それは1980年代まで続いたそうです。ワイパーはカメハメハ・スクールズ財団の所有地です。財団によるリゾート開発のプランがあったそうですが、地元の人たちの猛反対により、現在文化が保存され、森林再生も行われています。

Ahupuaa of Kauai 

2010-07-07 | Posted in 地元社会のためにNo Comments » 
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